知りたいを抑えよう

昔大好きだったネットの小説で主人公が恋人のことについて言った言葉が忘れられない。言葉が忘れられないと書いたけど私は一語一句はもちろん、言葉の使い方すら覚えることができないので考え方が忘れられないと言ったほうが正しいかもしれない。その主人公はその恋人のことについて、恋人が言わないことは知らなくていいことで自分は恋人が言ったことだけを知っていればいい、って言ってた。この考え方はきっと問題が有るんだろうけど推しの発した言葉についてその過程とか背景にあった過去とか考えて、勝手に深読みしたりどんな些細な事でも知りたいって思ってすぐ気をおかしくしてしまう私にはちょうどいいと思った。正直推しだけじゃなくて日常で人と接する時にもずっとそんなことばかり考えているからより心に刺さったんだろうなとも思うけど。何らかの形でいろんな人を通じて私まで来た情報は知っててもいいし、調べてわかる範囲のことは何でも知りたい人間として知っててもいいと思うけどわざわざ私が聞くってことはする必要は無いし知らないほうが幸せでいれるかなって思った。そもそも推しがステージにいる所が一番好きなのに好きが溢れて普段も知りたいって気持ちが大きくなりすぎてつらくなっていちゃ元も子もないよね。だから私はこの考え方を胸にファンとしてステージの上の好きな人たちを強く応援しようという決意。

あ、でもプライベート動画とかめっちゃ見たいから!オフショとか大歓迎だし接触も心臓止まるくらいにはだいすきだから!!!!!!

 

忘れたくないこと

好きだったものとかが私を形作ってるって考えるとそれを忘れていいのかなって思ってしまう。

ふとしたきっかけで思い出すのは感動的だけど都合の良いことだけ思い出して理論的じゃない気がする。そう思ったから忘れないために書きのこしておこうと思った。

でもそもそも好きを理論づけて話すのは必要ないとも思う。じゃあなんでそんなことするのかって言われると難しい。日常的に地道にやるタイプだと一定の利益がもらえて、その場しのぎで生きてれば運次第な結果になる。って思ってて、今はきっと前者の利益が欲しいって思ったから書くんだと思う。

この間、この子は物事を理論的に考えることが上手いと褒められた。確かにそうだけどそれだと私の場合問題が有りすぎるよ。とりあえず色々考えた結論が ‘理論なんかを超えて起きたことやしようって思ったことは最強’ ってこと。その癖して理論と感情を天秤にかけて大体理論が勝つ。面倒くさい。何を基準にして間違えるっていうのかわからないけど、人生間違えるのが怖すぎて臆病になってるだけなのなんて知ってる。わからないって言った基準だって本当は知ってる。私が好きな人たちが嫌いだったり好きな人たちを苦しめた世間一般の常識とか古い偏見とか。多分。だから辛い。その基準からみて別に今の私が間違ってるとは思わないけど、私にとっての基準が私が好きな人たちが嫌いな事だと思うからこそ自分を心から肯定できない、頭ではできるのに。

でも理論超えたことは強いって心から思ってるから好きな人たちのことは好きだしその人たちのことを好きでいれる自分のことは心から好きです。何かを好きで追いかけていた自分も肯定できます。なのでこれからも好きって気持ちは大切にしようと思います。(これが言いたかった)

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2018/9/25以降✍️自分用メモ

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